生きづらさについて話題になることが多いのですが
この生きづらさという感覚を言語化するのは難しいです
というのも人は独りで生きてるわけではないからです
多かれ少なかれ生きづらいということに関しては
その原因が自分にある
その原因が他人にある
といった観点から生きづらさを捉えている人もいるということです
つまり、生きづらいなぁということを言うと
自己責任だし、努力不足なんじゃないの
という疑問や
生きづらいことを他人のせいにしている
という何らかの非難ではないかという風に思われるということです
つまり、生きづらいということで、誰かを非難してるように感じる人がいるということです
私がおばさんになってもという曲があるんですけれども
無条件で自分が肯定されてる訳ではない
いう意味で生きづらさに関して、ポップに歌った名曲なのではないかという風に思います
もちろん、宇多田ヒカルとか尾崎豊のように自分の存在証明に近いような内容を表現できるアーティストもいます
しかし、それでさえ何か歌のような形で代弁したものに共感するという儀式になってしまいます
生きづらいなぁと感じていることを自分で証明しなければいけないという程辛いことはありません
ありのままとか自分が自分でいられること
これは何か物語の形で共感されることはあっても
自分が生きるというのは、物語を生きるわけではなくて
本当にそこに自分がいるということを無条件に肯定される
という意味なので
むしろどういう条件で自分が肯定されているのかということを言語化するいい機会になるのではないかなという風に思っています